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毎年、年末の我が家の恒例行事に、キムチパーティーがある。事実上の忘年会である。世田谷の自宅には、入れ代わり、立ち代わりで、かれこれ七、八十人
ほどの客が訪れる。義理で来るような相手は、一人もいない。
キムチを漬けるようになってから、三十年以上になる。在日韓国人では珍しくないだろうが、夫婦ともに日本人という家庭では、いわば先駆者の部類に入るだろう。
韓国語を習いはじめたころ、我が家へ毎週来てくれる先生がいた。早稲田大学の大学院生だった金栄来(キムヨンネー)氏で、今は国立忠北大学校の商学部長をしておられる。彼が、夫妻そろって、我が家へ来て、我々夫婦に、キムチの作り方を伝授してくれたのだ。韓国では、それぞれの家庭ごとにキムチの作り方が決まっている。うちのキムチは、正確に言えば、忠清北道の清州(チョンジュ)の金家の製法プラス日本式ということになる。
日本式の部分は、説明が必要になる。なるべく本格的に韓国式で行くつもりだったが、気候、材料などの面で、アレンジしないといけない部分が出てくる。韓国より東京の方が暖かいので、やや塩加減をきかさないと発酵が進んでしまい、早く酸っぱくなってしまう。また、すべての材料を韓国で買ってくるわけにはいかない。植物検疫の問題があるが、それ以前の問題として、重すぎて運べないのである。
毎年、作る量が増えてしまった。最初は、家に原稿を取りに来た編集者に、御歳暮がわりに差し上げていたのだが、そのうち、希望者が増えてきた。そこで、キムチを口実に家で飲み会をやることになった。また、来られない編集者には、届けたりもした。
今では、白菜五十株という量になっている。これが、製造限度だろう。一株を四分の一に割るから、普通売っているキムチの二百パック分ということになる。
まず、買い出しから始まる。韓国ソウルの京東(キョンドン)市場には、行きつけの唐がらし屋さんがある。毎年のことで顔なじみになっている。そこで、十キロ以上の唐がらしを買い込むのをスタートに、鰯の魚醤や、松の実など、調味料、薬味の類を買ってくる。韓国の白菜は、日本のものとは種類が異なるのだが、そこまでは凝れない。重すぎて持ってこられないからだ。
漬け込みの日は、戦場のようになる。これだけの量だと、一人では不可能だから、助っ人が必要だが、ここは韓国式に知り合いを動員する。また、キムチは家の味だから、後継者を育てないといけない。長女と長男の嫁を、まず仕込んだ。
毎年来てくれる友人と、初めての友人で、漬け込みをはじめる。初めて参加する友人にとっては、いわばキムチ教室になる。
一番大きいサイズのポリバケツ二個に入れて、地下室に一週間ほど置いておくと、発酵して家中キムチの匂いが漂いはじめる。一週間ほどで開けてみると、食欲をそそる真っ赤なキムチが顔を出す。この瞬間が、幸せそのものだ。
キムチパーティーには、韓国料理をメインに無国籍料理を作って振る舞う。昔からの常連も、今では家族連れである。ある友人の長男は、我が家のキムチパーティーの影響で、外語大の朝鮮語科へ進み、得意の韓国語を生かして、テレビ局に入社し、小泉訪朝にも同行取材することになった。
とうとう、うちのワイフは、キムチの本を出版するまでになった。「家庭で作る極上キムチ」(文化出版局)である。以前から個人的には、多くの人々にキムチ作りを教えてきた。家の漬け込みに参加した人たちは、自分でもキムチを漬けるようになる。娘の結婚相手のお母さんは、すっかりキムチに夢中になり、そこでも毎年漬けはじめた。ずいぶん弟子を増やしたものだが、本を書いたところ、キムチ教室をやってほしいという引き合いが増えた。そこで、なるべく引き受けるようにしているのだが、中には変わり種も出てくる。北海道の方で、わざわざ我が家まで来て、実費を払ってキムチ作りを習っていった方もいる。
東京では、何度もキムチ教室をやったが、浜田でも何度か行うことになった。ワイフは、若返って生き生きしているから、結構な話だが、一つだけ弊害が出た。電話がかかってきて、豊田先生と言われると、てっきり、ぼくのことと思い込んでしまうのだが、それが、ワイフのことだったりするので、紛らわしいのだ。
この次のプレゼント本は、ぼくの著書ではなく、ワイフの本にするとしよう。
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