元祖フリーター
豊田 有恒

 老年になって、はじめてサラリーマン生活を楽しんでいる。石見という土地柄が、性に合っているせいもあるだろう。
 人生というものは、面白いもので、若いころには、よもや、こんな人生を送ることになるとは、夢にも考えなかった。
 高校は、東京の私立武蔵高校という受験校だった。生まれは群馬県前橋市、高校から東京に移ったのには、訳がある。七歳ちがいの秀才の兄が、武蔵高校から東大というコースを進んだので、それにならったわけだった。地方の中学から上京した一年目は、さほどの成績ではなかった。どんなに勉強しても、兄貴にかなうわけがないと思いこんでいたせいもあった。
 ところが、高二のとき、開業医だった父が急死してしまった。悪いことは重なるもので、医師国家試験に合格したばかりの兄が、脊髄腫瘍で寝たきりになってしまった。急遽、医者である叔父なども加わり、親族会議のようなことになった。結論は、ほくが医者になるというものだった。これまで、医者になろうなどと考えたこともない。しかも、医者になれる能力も適性もない。大反対したものの、「家をつぶす気か」と言われると、気持ちが揺らいでくる。
 とうとう、ほくが医学部を受験することに決まってしまった。いったん決まってみると、モーティベーションができあがる。こっちも若かったから、死に物狂いになる。並大抵のことでは、秀才の兄貴の穴を埋められそうもない。
 しばしば受験地獄とか、灰色の受験生活などと言われる。だが、それは、受験勉強をやったことのない人のセリフだろう。人間的に考えれば、父親の死、兄の発病は、悲劇だろう。だが、受験にとっては、これほどの好条件はない。なにしろ、ぼくが、合格するしか道はないのだから、生活は受験一色になる。他に楽しみを知らないのだから、受験が、生き甲斐、楽しみ、趣味、娯楽になってしまう。
 成績が上がれば、同級生からは畏敬の目で見られるし、先生の受けも良くなるし、母親からも信頼される。高三の全校模試では、二番になった。
 東京大学理科U類、慶応義塾大学医学部の二校しか、受験しなかった。当時、国立は一期校、二期校という分類になっていたが、二期校のほうは受験しなかった。滑り止めなどという考えはなかったのだ。背水の陣だから、万一落ちたら、自殺しようと考えていた。もちろん、落ちない自信もないわけではなかった。
 無事、二校とも合格したから、自殺しないで済んだ。
 東大のほうは、当時、医学部進学コースの理科V類はなく、二年後に四百人のうちから学部試験を行ない、八十人だけが医学部へ行けるという制度だった。さらに二年も、受験勉強をやっていたら、おかしくなるだろう。東大も手続きだけはしたのだが、面接官の態度が横柄だったので、入学しないことにした。そこで、慶応義塾に入学した。
 入学早々に兄の手術が行なわれた。現在とちがって、検査法が確立していなかったから、開けて(手術して)みないと、よく判らなかったのだ。幸い、腫瘍は、脊髄液のなかで肥大して、脊髄の神経を圧迫していただけだった。脊髄そのものは大丈夫だから、腫瘍さえ摘出してしまえば、全快するという見通しが立った。
 弟として、こんな嬉しいことはないが、ぼくが医者にならなければいけない動機も消滅した。よくよく考えてみると、医学部の試験には合格できても、医者になれる能力も適性もないうえ、なる気もない。ワンポイント・リリーフは、ベンチに引っ込むべきだろう。
 慶応義塾には三年いたが、とうとう放校になった。
 高校を出た縁で、武蔵の先生がたに頼みこんだ。こういうわけで、追い出されたから、引き取ってくれというと、いい時代だったせいだろう、入学させてくれるという。そこで、武蔵大学で、やりなおした。
 もはや優を稼ごうなどという野心はない。医者にならなくて済んだという安心感はあるものの、自分の将来には自信がない。そのころSF小説を書きはじめた。東宝映画と早川書房の合同企画で、SF小説のコンテストが行われることになり、応募することにした。このころ同期で入選した仲間が、直木賞作家の故・半村良、「日本沈没」の小松左京、紫綬褒章を受賞した筒井康隆などである。
 さしあたり、当時の金で賞金の一万円をもらったものの、食べられるかどうか判らないので、就職試験を受けたのだが、面接で質問されるのは、医学部中退の理由ばかりで、おまけに優の数が少ないから、電通、博報堂、丸紅、日商岩井など、すべて落ちた。
 やむなく、文筆生活になった。たぶん、ぼくらの世代では、フリーター第一号だろう。
 六十歳を過ぎて、県立大学に招かれて、人生で初めて月給を貰う身分になった。これまで経験がないだけに、ボーナスというのは、実にありがたいと実感したものだった。

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