|
海のない群馬県で生まれたので、海には憧れを抱いている。四十代のころ、八年かけてバイクで日本一周した際も、一周の定義からはじめたものだった。一周とは海岸にもっとも近い国道を走るものとするという定義で、毎年、北海道、東北の日本海側などといった区域を決めてから出掛けた。中国地方を回った年には、もちろん国道9号から191号を走った。
そんなわけで、海の見える大学宿舎をはじめ、浜田での生活すべてが気に入っている。
なんといっても、浜田での生活は、海とは切り離せない。単に魚が、おいしいといった次元の問題だけではない。ノドグロ、エテガレイなどは、あちこちに干物を贈っているから、各地に浜田ファンができあがっている。そのうち、自分でも、採ってみたいと思いはじめる。同僚の井上定彦教授が、釣りの趣味をもっているということは、知り合ったばかりのときから知っていた。井上さんから、釣りの奥義(?)を伝授してもらい、竿を買って自分でもやりはじめた。堤防や桟橋で釣るだけだから、大きな獲物はかからない。十センチ以下のアジ、サバなどが、よく釣れる。小さすぎて、さばくのが難しいから、塩焼きにするしかなかったのだが、8センチくらいのサバが、三十匹も釣れたときは、面倒くさいので、全部ほうりこんで韓国式に「メウンタン」(辛いスープ)を作ってみた。これが絶妙で、三食つづけて飲んでも飽きなかった。
二十五センチくらいのコノシロが、十匹くらい釣れたこともある。宍道湖でコノシロが大量死したという新聞の記事を見かけたことがある。こっちの人は、コノシロを食べないらしい。だが、江戸前では、コハダと言えば、光りものの代表格の寿司ネタである。見よう見真似で、塩漬けにしてから酢につけて、コハダの酢漬けを作ってみた。これが、また絶妙で旨かった。
そんなわけで、東京の家族に、ぜひとも浜田へ来てくれと、なんども言いつづけていた。この夏、四年目にして、ようやく家族の浜田来訪が実現した。
世田谷区下北沢にある家は、東京では珍しい大家族である。ぼくが帰省した際には、人口六人になる。ぼくたち夫婦、長男夫婦に孫一人、そして独身の次男が、いっしょに住んでいる。車で二十分ほどのところに結婚した娘が住んでいて、そこに孫二人いる。
あいにく、婿と次男は、仕事の都合がつかないので、来られなかったのだが、われわれ夫婦も入れて、計八人が集まることになった。
そこで車も、ミニバンに買い換えた。
あいにく、今年の夏は、梅雨明けが遅くて、海水浴日和の日がなかったが、孫たちが滞在しているあいだ、一日だけだが、どうにか磯遊びくらいはできそうな陽気になった。そこで、みんなで瀬戸が島の入り江へ行った。土地の人しか行かないような小さな浜辺になっている。
孫たちは、おおはしゃぎである。長男と娘は、それぞれの子の面倒を見ている。その姿を眺めていると、三十年の昔が、蘇ってくる。三人の子供たちを、あちこち連れまわしたものだった。SEAP(東南アジア・プロモーション)センターというところのスーパーバイザーを、引き受けていた関係で、旧ASEAN五か国へは、仕事で行ったのはもちろん、子供たちも何度か連れていった。
フィリピンのプンタバルアルテ・リゾートとか、タイのパタヤ・ビーチとか、マレーシアのペナン島とか、あちこち連れていったものだ。
長男は、自分の娘と礒遊びに興じている。三十年まえ、ぼくが教えたことは、無駄にはなっていない。子は、親から学んだとおりのことを、自分の子にも伝えるものなのだろう。
娘は、ふたりの子と、波打ち際で、遊んでいた。
ちょうど、そのときだった。娘の大声が聞こえてきた。
「パパー、イカ、イカ、イカー」
昔から、声の大きな娘だった。浜辺じゅうに聞こえるような声だ。娘の指さす方向を見ると、四、五十センチもある茶色がかったものが、こっちへ泳いでくる。とっさに、手を出して、それをつかんだ。手のなかで大きなイカがもがいている。逃げられてはいけないので、岸にむかってジャブジャブと歩いた。
みんな集まってくる。遠くの岩場から、長男も孫を抱えてもどってくる。うちの家族ばかりでなく、近くにいた他の家族も、群がりはじめた。
そこでイカを用意してきたゴミ用の袋に入れ、海の水をくわえて、日の当たらない場所に保管した。海水浴を終わって、親しくしているお魚センターの山本さんのところへ、晩ご飯の刺し身を買いがてら寄ってみた。
問題のイカは、アカイカと判った。魚のプロが見ても、珍しいことらしい。美味しいイカだというので、無料でさばいてもらい、夕食の刺し身が、さらに豪華になった。
ぼくには、秘められた才能があったらしい。大学教授も作家も廃業して、漁師になれば、成功するにちがいない。
あれ以来、あちこち喋りまくっているので、ワイフは眉をひそめている。どうやら、悪のりが過ぎるようだ。
|